アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所
第二次世界大戦中にナチス・ドイツによるアーリア人至上主義に基づく人種差別による迫害と大量虐殺が行われていた施設です。
ユダヤ人の迫害と虐殺に関与していた場所とされていますが、実際は政治犯や捕虜、ロマ・ジプシーといった移民から身体・精神障害者、同性愛者などのマイノリティや労働力にならない老人や女性、子供も収監対象でした。
施設の周囲には高圧電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされており、その中で過酷な強制労働が強いられ、耐えられない者にはガス、銃、絞殺などによる虐殺が日常的に行われていたそうです。
ナチス・ドイツの強制収容所の中では最大規模であり、この施設だけで150万人もの人々が犠牲になったとされています。
1979年に世界文化遺産にも登録されており、「負の世界遺産」として”戦争”の意味を伝え続けている施設です。
チケットの入手方法
WEBサイトから予約する
公式HPからクレジットカードを使ってチケットを予約する事が出来ます。
日本語での予約は出来ないので、言語を英語に設定します。
英語が不安な場合はGoogle 翻訳を使って翻訳しながら進みましょう。
トップページのReservation(予約)からVisit for individuals(個人訪問)を選択して日付、ツアーの時間、ガイドの言語を選択していきます。
一般的なツアーはGeneral tour 3.5H(3.5時間のツアー)なので迷ったらコレでOKです。
国籍と名前、連絡先(Eメール)を入力したらクレジットカード払いを選択。
処理が完了すると、登録したメールアドレスにチケットが送られてきますので、宿泊施設でプリントアウトして当日持って行きましょう。
僕が実際に手配したチケット。
直前に申し込んだので、希望の時間がフランス語だけでした。
実はツアーに申し込まなくても時期と時間によっては無料で入れます。(詳細は料金にて明記)
ただし、当日の混雑状況で入場できない場合もあり、施設がとても広いのでガイドをしてもらう方が賢明かと思われます。
当日、施設のカウンターでツアーの申し込みも可能ですが、混雑状況によっては入場すら叶わない場合もあるかもしれないので、やはりWEBサイトから予め予約する方が安心でしょう。
営業時間
1月・11月 8:00~15:00
2月 8:00~16:00
3月・10月 8:00~17:00
4月・5月・9月 8:00~18:00
6~8月 8:00~19:00
12月 8:00~14:00
1月1日・イースター・12月25日 休み
料金
入場料は無料。
4月~10月の10時~15時はガイド付きのみで見学可能。
ガイドの料金は言語やツアー時間によって多少異なりますが、一般のツアーで1日のツアー回数が多い言語であれば45zt程。
日本語ガイドツアーは日本人の「中谷剛」さんという方が行っていますが、大手のツアー会社主催の日本人観光客の予約がびっしり埋まっているらしく、数か月前から予約していないと日本語ガイドツアーに参加するのは難しいようです。
ガイド料は300~450zt。
これを参加人数で割り勘するようです。
個人で申し込む場合は以下のメールアドレスから連絡を取ります。
nakatani@wp.pl
場所
オシフィエンチム(Oswiecim)という街にあり、施設は現在、アウシュビッツ強制収容所という名前ではなくアウシュビッツ博物館(Muzeum Auschwitz)と呼ばれています。
一般的にアウシュビッツと呼ばれていた収容所はこの博物館がある場所で、より多くの人々を収容する為に後から作られたビルケナウ収容所も2kmほど離れた場所にあります。
アウシュビッツ博物館のバス停からビルケナウへ行く定期バスが往復しています。
アウシュビッツ博物館。
ビルケナウ収容所跡。
クラクフからのアクセス
電車だとアウシュビッツ博物館のある最寄駅までしか行かないので博物館まで直行してくれるバスが圧倒的にオススメです。
値段も電車の方が高く、時間も掛かかります。
クラクフバスターミナルの場所。MDAというバスターミナルで看板もあるので目印にしましょう。
2階が待合室兼チケットカウンターになっており、1階がバスの乗り場になります。
1階にも簡易チケットカウンターがあるので、乗り場に直行してもチケットは買えます。
チケットカウンターでチケットを購入するときは「アウシュビッツミュージアム」もしくは「オシフィエンチムミュージアム」行きのチケットが欲しいと言いましょう。
「アウシュビッツ」行きだと二度と戻ってこられない片道切符になってしまいます。
バスのチケットは片道15zlくらい。1zl=約30円(2017年現在)
所要時間は片道1時間30分~2時間程。
バス停降りたら看板を辿って博物館の入り口を目指します。
博物館に行く間にも写真展示がずらりと並んでいます。
負の世界遺産から”戦争”の意味を学ぶ
予約した時間になったら印刷したチケットを受付に提示すればスムーズに入館できます。
僕が訪れた時期はガイドがいないと入れない時期だったので、ガイドさんの説明を聞く為の無線機とガイドをしてくれる方の番号が書かれたシールをもらいます。
このシールには指定したガイドさんの言語も記載されているので、合っているか確認しましょう。
ガイドさんを見つけたら、全員揃うのを待って施設を案内してもらいます。
アウシュビッツの入り口のゲート。
「ARBEIT MACHT FREI」というスローガンが掲げられています。
意味は「働けば自由になる」。
すべては偽りで、働いても自由になるどころか過酷な労働を死ぬまで行わせる非人道的な施設だった事を知りながらも多くの人々は収容されたようです。
ちょっと分かりづらいですが、「B」の部分が上下逆転しているように見えませんか?
この看板は収容された人が作ったもので、施設の内情に抵抗してあえてひっくり返したという説があるそうです。
犠牲者の遺灰が詰まっている杯。
ナチス・ドイツ軍の隠ぺいにより犠牲者の数は今でもはっきりとしないそうですが、およそ150万人と言われています。
この地図は第二次世界大戦中にアウシュビッツ収容所に連れてこられた人々が暮らしていた場所を示すものです。
ナチス・ドイツの支配が強大だった事が伺えます。
フランス人のガイドさん。
フランス語分からないので”なんとなく”になってしまったのが残念。
アウシュビッツ収容所の虐殺と聞くと、「毒ガス」というのは有名な話です。
その毒として用いられた「チクロンB」という殺虫剤の空き缶の山。
発疹チフスを媒介するシラミ対策や農薬として使われていたものが、ここでは大量殺人に用いられていました。
殺人目的の化学兵器ではなかった故に、即効性はなく20分程苦しみながら絶命したそうです。
ただ、こうした性能から実際にガスによる大量虐殺が可能だったかという点で懐疑的な意見もあるそうです。
ただ、これは殺人の手段を問うだけの話で、ガス室があろうがなかろうが、非人道的な行いをしていた”収容所”が存在したという事だけでも立派な戦争犯罪の証拠でしょう。
押収された義足や義手、松葉杖。
身体障害者であっても一切容赦なく押収されたようです。
こちらは押収された靴。
歴史の教科書にも載っているので見覚えある方はいるかもしれません。
このほかにも日用品や毛髪、金歯・銀歯に至るまで、収容された人々の財産のことごとくを奪った証拠の山がいくつも展示されています。
実際に行って見ると当時の質感というか生々しさが伝わってきます。
今度は地下に案内され、懲罰房へ。
ここには立つだけのスペースしかない立ち牢や食事を一切与えず、餓死させる為の飢餓牢と呼ばれる牢屋が並んでいます。
主に脱走を試みた収容者への懲罰や、脱走が成功しても見せしめとして無作為に選ばれた収容者を数十人をこの牢屋に閉じ込めたそうです。
写真はコルベ神父という聖人になった方が入れられていた飢餓牢。
11号室の18牢にあります。
餓死刑を言い渡された収容者の代わりにコルベ神父が刑を引き受け殉教した場所。
刑を免れたポーランド人の男性はアウシュビッツから生還して94歳で天寿を全うするまで、アウシュビッツでのコルベ神父に関する講演を続けたそうです。
コルベ神父の行いが公になった事で、1982年列聖されるに至りました。
10号棟と11号棟の間にある銃殺用の「死の壁」。
この場所で数千人の収容者が銃殺されていました。
もともと11号棟は収容者の刑務所として使われており、有罪となった人々をこの場所で処断していたそうです。
今でもたくさんの献花がされています。
収容所の外周には高圧電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされています。
もちろん今は触っても感電しないですが、当時は強制労働の苦しさと絶望から故意に有刺鉄線に触れて感電自殺する人も少なくなかったようです。
脱走者を見張る監視塔。
アウシュビッツ見学最後の施設。
シャワー室と呼ばれていた有名なガス室。
この場所にシャワーで洗浄すると称して大量の収容者を連行し虐殺していた場所とされています。
ガス室の隣には遺体処理の為の焼却炉があり、虐殺した人々をここで焼いたそうです。
当時はガス室で虐殺した人々も含め、1日300人近い遺体を焼いていたという。
アウシュビッツ収容所が殺人工場と呼ばれる意味がようやく理解できました。
いかに大量に殺し、いかに効率的に遺体を処理・隠ぺいする工夫が随所にされています。
また、看守に精神的な負担が掛からないように収容者にガス室までの誘導や遺体の処理までさせていたというのだから収容者の絶望ははかり知れません。
明日はわが身かもしれないし、中には知り合いや家族の顔もあった事でしょう。
ガス室を出る際に、団体で来ていた小中学生の子供やお年寄りが泣きながらこの場を跡にする様子が今でも心に焼き付いています。
ガス室の隣にはアウシュビッツ収容所の所長「ルドルフ・ヘス」の処刑に使われた絞首台がポツンと置かれています。
彼には妻と5人の子供がおり、この収容所のすぐ近くの自宅で何不自由なく暮らしていたというのだから驚きます。
大量虐殺に加担していた罪の意識などない、非道な差別主義者だったのでしょうか?
処刑される前に書いていた手記にはこのような内容が記されていたようです。
「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。」
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」
内容から察するに反省の弁でない事は間違いありません。
ただの言い訳ですね。
しかし、彼がもしもこの事態を憂いて行動を起こした所で、虐殺が回避できたかと言えば無理だったでしょう。
歯車が別の新しい歯車に変えられるだけでしょうから。
むしろ、彼の立場からすれば組織に粛清され家族にまで危害が出ると思えば組織の歯車になってしまう方が都合が良かったと考えても仕方はないでしょう。
また、このアウシュビッツ収容所のシステムが有名な心理実験である「監獄実験」の結果と酷似しているような気がします
無作為に集められた人間に看守と囚人の役を与えて生活させると、看守は看守らしく、囚人は囚人らしく振舞うようになるというものです。
この実験の結論としては元々の性格とは関係なく与えられた役割に依存して理性の歯止めが利かなくなる症状が現れたそうです。
つまりこの収容所での非人道的な行いは差別を是とした歪んだ組織とその役割によってもたらされた惨事だったのかもしれません。
そうした点で見れば彼の言う内容は少しは理解できます。
が、彼が信じた思想や組織によってもたらされた非人道的な行いである事は明白であり、それに加担して幹部まで上り詰めた人間が人道的な性格の人間であるはずがありません。
典型的な戦争を利用した犯罪者だと思います。
ガイドさんに案内され、今度はビルケナウ収容所跡へ向かいます。
アウシュビッツ博物館前のバス停からバスで2km程一緒に移動するので、ツアーなら迷うことはないでしょう。
上の写真はビルケナウ収容所の入り口。
別名、死の門。
収容人数の増加に伴い、アウシュビッツ第二収容所として作られたのがこのビルケナウ収容所。
貨物車で大勢の収容者や収容した人々から奪った略奪品を運ぶ事が出来るようにレールが敷かれていました。
門をくぐると、広大な敷地の中に約300棟の粗末な木造のバラック小屋が無機質に並んでいます。
ナチス・ドイツ軍の敗戦ムードが濃厚になった頃には食糧難による大量の餓死者と劣悪な環境による凍死、衰弱死やチフスといった感染症による病死が多かったそうです。
ここに大量のベッドが置かれ多くの収容者が暮らしていたそうです。
ポーランドは年間通して平均気温が低く、冬場は-20℃にもなる時もあるらしい。
収容されていた人々の暮らしの厳しさが伺えます。
こちらはトイレのある小屋。
この穴がすべて用を足す便器。
トイレを使用して良い時間は午前・午後2回と決められており、仕切りのないこの場所で集団で用を足すように強制されていたそうです。
排水設備が不完全で、衛生環境も最悪だったようで感染症に発展していたとの事。
ビルケナウにもガス室がありましたが、ドイツ敗戦間近にソ連軍が迫ると証拠隠滅の為、ナチス親衛隊により爆破されてしまったようです。
破壊されたガス室跡のコンクリート瓦礫の山が2~3ヶ所並んでいます。
すぐ近くに貯め池があるのですが、そこに焼却した遺体の灰や砕いた骨を捨てていたらしい。
ナチス・ドイツが崩壊するまでの1940年~1945年の5年に渡り、このような残虐な行為が行われ、ソ連軍侵攻に伴う解放により、ようやく終わりを告げました。
戦争による監禁・虐殺というと、”アウシュビッツ”というのがあまりにも有名ですが、僕が以前訪れたカンボジアのキリングフィールドやユーゴスラヴィア圏における紛争の激戦地モスタルでもこのような施設があったという話を耳にしました。
そのどれもに共通していた事は「差別」「選民思想」「民族浄化」でした。
日本と違い、地続きで様々な人種や民族の暮らす土地ではデリケートな言葉です。
体面上はこうした言葉を巧みに利用し民衆を扇動して、戦争に意味を持たせるのでしょう。
大量殺戮の大義名分が立つ訳です。
戦争をする事で莫大なお金が動きます。
武器や物資の供給といったように。
また、正当化された略奪が平気で行えます。
戦争を利用すれば、富も権力も地位も手に入ると考える人間がいてもおかしくありません。
そうした人間の欲望を抑える理性が利かなくなった時、同じ事が繰り返されるのでしょう。
だから痛手を負うのは決まって普通に暮らしている人々です。
少なくとも僕がクロアチアのドゥブロブニクで出会った紛争を経験した住民の方々は、民族の違いで争う事は始めから望んではいませんでした。
アウシュビッツを含めた凄惨な歴史から戦争の意味を自分自身で咀嚼して苦しむ人が少しでも減って行く社会になるよう行動する事が大切なのだと思います。
というのが僕がアウシュビッツを訪れて考えたとりあえずの答えですね。
正しいかどうかはわかりませんが。
観光の注意点
あくまで負の世界遺産なので、一般の観光地と同じ気持ちでふざけたり、騒いだりするのはオススメしません。
写真撮影が禁止されている場所はほとんどありませんでしたが、フラッシュは厳禁でした。
犠牲になった方々の写真や毛髪といった生々しい遺品の数々も展示されているので、配慮をもった撮影を心がけましょう。
日帰りの場合は、帰りの交通機関のタイムテーブルを事前に確認してから行動しましょう。
アウシュビッツからクラクフに帰るバスのタイムテーブル。(2016年6月)
終わりに
近年、世界情勢が緊迫化するのに伴い過激な思想も目立つようになりました。
こうした考えに安易に流されない為にも改めて負の歴史を学ぶ事で得られる事もあると思いますので興味のある方は訪れてみてはいかがでしょうか。
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